五山送り火
京都の五山送り火は、お盆に地上へ帰られたお精霊さんを冥界へ送る仏教行事です。他の観光地などで行われている火で文字を書くイベントとは趣旨が違いますので送り火を「大文字焼き」と表現するのは正しくありません。
五山の送り火は、お盆の始まりに帰ってきた先祖の精霊をお盆の終わりに見送るため、あの世へ通じる暗い道を明るく照らし、無事に帰れるように願って始められたといわれています。
「五山送り火」の名前が示すとおり、現在は、「大」、「妙法」、「大(左大文字)」、「舟形」、「鳥居形」の五つですが、享保2年(1717年)の『諸国年中行事』という書物には、この五山以外でも送り火がされていたと記されており、市原野の「い」、鳴滝の「一」、西山の「竹の先に鈴」、北嵯峨の「蛇」、観空寺「長刀」があったとされています。しかし、これらは早くに途絶え、現在は五山が残るのみとなっています。現在五山の送り火は京都市登録無形民俗文化財(1983年6月1日)に指定されています。
「妙」と「法」
宝池自動車教習所のすぐ北側にある松ヶ崎西山の「妙」、そこから東に約1qの場所にある東山の「法」、この二つの山に書かれた文字が五山送り火の一つである「妙法」です。西山、東山の二つに分かれていますが、「妙法」はこの二文字で一山と数えます。
しかしこの、「妙」「法」の二文字は同時に書かれたものではありません。文字をよく見ていただくと分かりますが、左に「妙」、右に「法」の文字があります。昔は右読みですから、二字が同時に作られたならば、左側に「法」、右側に「妙」と浮かび上がらなければなりません。
「妙」、「法」の文字は、「妙」が徳治2年(1307年)に日蓮宗の僧・日像(にちぞう)が「南無妙法蓮華経」の題目から「妙」の字を書き、それを基に地元で山に点火を始めたのが起こりとされています。
「法」は下賀茂大妙寺の日良(1590〜1660年)が書いたといわれています。また山の所有権の歴史をみても、「妙」のある西山・万燈籠山が昔から共有地であるのに対し、「法」の東山・大黒天山は区画ごとに所有者がいることからも、「妙」が古い歴史を持っていることが分かります。
妙と法は書いた人が違うことが関係したのか、「妙」は草書体であるのに対し、「法」は楷書体の字体で書かれています。山肌に書かれた「妙」の文字をよく見ると文字の右上に点が打たれています。楷書体で「妙」と書く場合は右上に点を打ったりしませんが、草書体で書いた場合は「少」の最後の画を書いた後の筆の勢いで右上に点を打つ場合があるようです。
五山の中で「鳥居形」以外の山には送り火を燃やすための火床が設けられています。妙の火床数は103基、法の火床数は63基あり、現在は鉄製の火床の上にアカマツの割木を高さ約1メートル積み上げて点火しています。
文字の大きさは、「妙」は縦横の最長約100メートル、「法」は縦横の最長約70メートルの大きさがあります。点火時間は毎年8月16日の午後8時10分です。
宝池自動車教習所では毎年この五山の送り火の日は教習業務を中止し、送り火をご覧になる方のためにコースを解放しています。
良い場所を確保すために夕方から「場所取り」に訪れる方もあり、点火時刻には数千名の方がコースから送り火をご覧になっています。年配の方は送り火に向かって静かに手を合わせ、先祖の霊を送っておられる方もおられますが、若い方は記念写真の撮影に忙しいようです。できれば先祖の霊に手を合わせることも忘れないでいただきたいものです。
白い大文字
長年にわたって人々の手で守り伝えられてきた送り火ですが、太平洋戦争中の1943(昭和18年)〜1945年(昭和20年)にかけて、灯火管制や資材不足から3年にわたって中止されたことがありました。しかし何とかして伝統を絶やさないようにしようとする方達によって火を燃やす代わりに人文字による「白い大文字」が現れたこともありました。下記の文章がその様子を伝えています。
1943年8月16日、地元住民と児童らが白いシャツを着て山に登り、火床の位置に並んで「大」の字を描いた。この年、参加した京都市立第三錦林国民学校OBらが寄せた文集「白い大文字 それぞれの50年」(松田良子編著)には「送り火はたしかに『途絶えた』が、少なくとも(昭和)18、19の2年間は、私たちの人文字で、大文字の『伝統』を辛うじて守り抜いたということになるのだろうか」とあり、送り火に対する地元の強い使命感がうかがえる。
この「白い大文字」は翌年も続きましたが、終戦の1945年には行われなかったそうです。戦争のため中断した送り火は1946年に復活し現在に至ります。
お盆以外での送り火
五山送り火は先祖の霊を送るための仏教行事であり、お盆の時期に行うのが妥当と思われますがこれまでに二度だけお盆以外でも送り火が行われたことがあります。
もっとも記憶に新しいのは、2000(平成12)年12月31日、京都市の「21世紀幕開け記念事業」の一つとして行われたものです。